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今日もgood-day

3月放送

   ♪毎日モーツァルト♪3月放送分 
 3月放送分

<3月1日>第23回「青春の記念碑」交響曲第25番ト短調K・183 1773年17歳の曲

 1773年秋モーツァルトは二ヶ月に及ぶウィーン旅行から帰る。再び宮廷楽師長としても職務に戻る。主人であるコロレド大司教の好みに合わせ。演奏、作曲する日々。

 しかし、モーツァルトの創作意欲はただ主人の注文に従って曲を書くだけでは満たされなかった。1773年夏から秋にかけウィーンを訪れていたモーツァルトは 疾風怒涛運動 に触れたとされる。この運動の狙いが「ゲーテ」とされる。

 この曲はウィーンから戻ってすぐ1773年10月に書かれた。初めて短調で書いた曲である。第一楽章に見られる鮮烈なリズムは豊かな情感を表している。
この曲は「疾風怒涛運動」の影響が観られるといわれる。

<3月2日>第24回「姉ナンネル」ピアノ協奏曲第5番ニ長調K・175 1773年十二月にザルツブルグで書かれた。
 この曲は初めて取り組んだオリジナルピアノ曲。それまでとは異なり。多くの楽器からなる協奏曲である。10年後この曲のカデンツァ(独奏曲)を姉、ナンネルに贈っている。

 マリア・プライン巡礼教会は幼少から姉ナンネルと共に通った教会。
ナンネルは幼少からモーツァルトと共に演奏旅行をしている。その後は二人は別々の人生をたどる。

 ザンクト・ギルゲンはザルツブルグの東南40キロの場所。結婚によりこの湖畔に移り住んだ姉ナンネルはここに17年暮らす。また母の誕生の地でもある。母と姉の記念プレートがある。モーツァルトは多くのピアノ曲を姉に贈っている。

<3月3日>第25回「宮仕えの退屈」交響曲第29番イ長調K・201 1774年4月18歳に作曲
  ミラベル宮殿は「美しい眺め」と言う意味でコロレド大司教の夏の離宮。17世紀に大司教が寵愛する女性のために造営した。大司教は聖職者で世俗の最高権力者であった。
 
 宮廷楽師長としても職務は、宮廷での催しのみならず大司教の食卓で日常的に演奏する事も求められた。
モーツァルトは次第に宮廷音楽家としての待遇に不満を感じるようになった。

 モーツァルトはこの曲に若い創作意欲をぶつけた。弦楽器とオーボエ、ホルンだけの小さな編成だが当時、ウィーンで盛んになっていた室内楽の様式を巧みに取り入れている。
この交響曲を作曲してまもなくモーツァルトは鬱屈したザルツブルグでの宮仕えの日々からオペラ作曲と言う夢に向け第一歩を踏み出す。

<3月6日>第26回「オペラの大成功 」偽りの女庭師K・196  1774年18歳の曲
  1774年、モーツァルトは父と共にミュンヘンへやってきた。ミュンヘンの宮廷から新作オペラを依頼されていた。久しぶりのオペラ作曲にモーツァルトの心は沸き立っていた。

 ミュンヘンのレジテンツはバイエルン選帝侯(マクシミリアン3世)の宮廷。選帝侯はモーツァルトに新作オペラを依頼した。

 18世紀、ミュンヘンの宮廷では毎年、クリスマスになると新作オペラが二本上演された。一本は神話・伝説から題材をとったオペラ・セリア もう一本は日常の生活を題材にした オペラ・ブッファ
 モーツァルトが作曲したのは3幕のオペラ・ブッファ「偽りの女庭師」であった。
 「偽りの女庭師」は1775年1月13日に初演。行方がわからななくなった婚約者の伯爵を探すため、主人公の伯爵令嬢は庭師に姿を変え、いくつかの騒動の末、伯爵令嬢は婚約者と結ばれる。

このオペラの大成功によってモーツァルトは久しぶりに満ち足りた時を過ごす。

<3月7日>「大司教への不満」ヴァイオリン協奏曲第二番ニ長調K211 1775年19歳の曲

 宮廷楽師長として鬱屈した日々を送っていたモーツァルトはこの時期力を注いでいたのがヴァイオリン協奏曲だった。17~19歳にかけて5曲が作られた。これらはザルツブルグ協奏曲 と呼ばれる。

 ヴァイオリン協奏曲第二番は三ヶ月のミュンヘン旅行から帰郷した1775年6月に作曲された。モーツァルト自身が宮廷楽団で演奏するために書かれたといわれる。

 啓蒙思想を信奉する大司教コロレドは宮廷楽団の倹約、合理化を推し進めた。教会でのミサの時間は短縮され大学劇場も閉鎖される。宮廷楽団の活動も一気に狭められた。宮廷楽師長のモーツァルトは次第にコロレドに対して不満を募らせていく。

 第二番は青年モーツァルトにふさわしい颯爽とした雰囲気を持つ。当時流行していたフランス様式をこの曲に取り入れた。1775年、モーツァルトは宮仕えの日々から新たな活躍をみいだそうとしていた。

<3月8日>第28回「辞職願い」ヴァイオリン協奏曲台晩イ長調K219 1775年19歳の曲
 この曲は1775年十二月にかかれた。第3楽章の後半から早いリズムで転調し、異国情緒あふれる荒々しい音楽となる事からトルコ風 の愛称で知られる。1777年、モーツァルトは大司教に2度休職願いを出す。しかし父子そろっての休暇は認められなかった。8月、ついにモーツァルトは単独での辞職願いを提出する。

 一ヵ月後、大司教から許可が下りたが、以外にもモーツァルトだけではなく父の辞職をも示唆するものだった。
生活の糧を絶たれることを恐れた父レオポルトは動揺し、自らは宮廷音楽家としてザルツブルグにとどまる事を決意する。

 1777年9月、モーツァルトは父を残しザルツブルグを旅立つ。このとき初めて父親の庇護を離れ母と二人旅に出る。21歳の時だった。
ザルツブルグを旅立って以来、モーツァルトの旅は1年4ヶ月続く。

<3月9日>第29回「ミュンヘンでの出来事」ディヴェルティメントヘ長調K247 1776年 20歳の曲
 1777年9月モーツァルトはミュンヘンへやってきた。宮廷に職を求めるためだった。ニュンフェンブルク宮はバイエルン選帝侯の離宮。モーツァルトは6歳の時にこの離宮を訪れている。選帝侯の前で演奏を披露し大好評を博していた。
 18歳の時にはオペラ作曲を依頼するなどマクシミリアン三世はモーツァルトの才能を買っていた。彼に謁見する機会を得たモーツァルトは宮廷音楽家に採用されるよう期待を持った。

 しかし選帝侯からは「空席がない」の一言だった。大司教との確執の末にザルツブルグを離れたモーツァルトがさいようされるはずはなかった。

 一方、地元の貴族はモーツァルトの才能を高く買っていた。ある伯爵のためにこの ディヴェルティメント を演奏し大喝采を受ける。演奏は貴族を愉しませたと共に、モーツァルト自身の慰めとなった。
 1774年10月。モーツァルトはミュンヘン滞在を切り上げ次なる街へと旅立った。

<3月10日>第30回「父ゆかりの街へ」ピアノ協奏曲第6番変ロ長調K238 1776年。20歳の曲
 アウクスブルクは南ドイツバイエルン州。ローマ帝国以来続くドイツ最古の都市のひとつ。中世以来、「黄金のアウクスブルク」といわれた。

 モーツァルト一家は職人及び芸術家の家系であった。モーツアルトの父レオポルトはこの街で製本業の家に生まれた。書物に美しい装丁を施す事もまさに芸術の仕事。レオポルトは音楽家に必要な繊細な感覚を代々受け継いでいた。

 1777年10月、父の故郷へやってきたモーツァルトはまず市長を訪ねる。市長はじめ皆が父レオポルトのことを覚えており、モーツァルトは大歓迎を受ける。

 フッガ一家は15世紀以来続くアウクスブルグの名家。モーツァルトはここでピアノ協奏曲第6番 を演奏し、街の人々からも大好評を博する。父の故郷でゆかりの人々に囲まれ、モーツァルトは幸せな時を過ごす。

<3月13日>第31回名匠シュタインを訪ねて ピアノ協奏曲第7番ヘ長調K242 1776年20歳
 1777年10月父の故郷アウクスプルグを訪れたモーツァルトは父の意向に従い、楽器職人「シュタイン」の元を訪ねる。
シュタインとモーツァルトは11年ぶりに再会した。成人したモーツァルトを大喜びで迎える。訪問するなりマーツァルトはクラヴィーアに駆け寄り弾き始める。ハンマーが弦を打った瞬間、素早く元の位置に戻る画期的な技術。シュタインの楽器はモーツァルトを魅了した。

 数日後、モーツァルトは教会でオルガンを弾き、シュタインはその腕前に驚き改めてモーツァルトの成長を実感した。
二人は意気投合し、数日後一緒に演奏会を開く。演奏会でこのピアノ協奏曲第7番 を共演する。この協奏曲は1776年2月ザルツブルグで書かれた。モーツァルトと親交があった伯爵夫人と二人の令嬢が共演できるよう、三台のピアノのために書かれた協奏曲。
ピアノを始めた令嬢のために易しく書かれている。
高度な技術に支えられたシュタインの楽器に触れてますますその魅力に引き込まれていく。シュタインとの出会いはモーツァルトの音楽に新たな可能性を与えた。

3月14日第32回ペーズレとの恋  ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K216 1775年19歳の曲
 1777年10月アウグスブルクを訪れたモーツァルトは父の意向に従い父の弟の家の近くに滞在した。叔父の家でモーツァルトはいとこもベーズレと出会う。彼女はモーツァルトより2歳年下、20歳になろうとしていた。
 聖十字教会は叔父の家の近く。ここにベーズレとよく訪れた。いとこ同士の気のおけない関係からいつしか恋が芽生える。

 息子の手紙を受け取った父は「ベーズレ嬢が美人で頭が良く、愛らしくてしかも陽気だと聞いて私はとてもうれしい。」と返事を送りつつも、恋にばかりうつつを抜かさぬようにと息子に忠告している。

 ところがモーツァルトは忠告に耳を傾けない。15日間の滞在のうちにベーズレとの仲は急速に進展していった。

 ヴァイオリン協奏曲第3番は1775年9月ザルツブルグで作曲された。第三楽章は当時親しまれていた民謡から旋律を取っている。モーツァルトはこの曲を旅先に携え、しばしば演奏した。モーツァルトはベーズレへの思いを残しながら就職のため、次の街へ旅立たなくてはならなかった。その後も二人はしばしば手紙を交わした。のちにモーツァルトがベーズレへあてた手紙には、親しみをこめて彼女を描いたスケッチが見られる。
10月末ベーズレを残し次なる目的地マンハイムへと旅立つ。

<3月15日>第33回音楽の都マンハイムへ ピアノソナタ第7番ハ長調K309 1777年21歳
 中世以来のたたずまいを残すマンハイム。1776年に創設されたマンハイム音楽舞踊学校には今も音楽を志す若者達がつどう。
18世紀半ば、プファルツ選帝侯の宮廷が置かれて以来、マンハイムにはヨーロッパで最高水準の宮廷楽団を抱える音楽の都となった。

 シュヴェルツェンゲン宮はマンハイムから南へ10キロの離宮。ここの主、選帝侯カール・テオドールは音楽にとりわけ深い関心を持ち、ヨーロッパ各地から優秀な音楽家を集め宮廷楽団を編成していた。
ここで新たな職を得ようとモーツァルトはマンハイムを訪れた。モーツァルトは7歳の時ここで演奏し選帝侯を感激させた。
 
 ホールの入り口にはモーツァルトの像がある。マンハイムの宮廷楽団は器楽奏者だけで70人を超える大所帯。「マンハイム楽派」と呼ばれその名声はヨーロッパ中に轟いていた。第一級の演奏技術を誇る音楽家達がキラ星のごとく集まっていた。モーツァルトはマンハイムに滞在し、就職の返事を待つ間に、一流の音楽家達と交流を深めた。

 大規模な宮廷楽団を率いるムカンナビヒはモーツァルトがとりわけ尊敬した存在。毎日のように彼の家に通いつめた。「ピアノソナタ第7番」はカンナビヒの娘のために書かれた

<3月16日 >第34回就職の失敗 古ーと四重奏曲ニ長調K285 1777年21歳
 1777年冬、マンハイムの宮廷に職を得る事を心待ちにしていたモーツァルト。この「フルート四重奏曲」はマンハイムで書かれた名曲の一つ。フルートが伸びやかに鳴り響き幸福感に満ち溢れている。

 モーツァルトが演奏会を開くと選帝侯も顔を出した。マンハイムでの就職活動の滑り出しは順調に行くかに見えた。12月なかば、選帝侯からの返事が寄せられた。期待に反し、宮廷楽団への採用はかなわなかった。

 屈指の名演奏家たちが結集するマンハイムの宮廷楽団に新参者が就職を求める事は極めて難しかった。旅費にも事欠いたモーツァルトは一冬をマンハイムで過ごす。

 ヴェンドリングはモーツァルトの生活を助けようと作曲の仕事を斡旋する。「フルート四重奏曲」は彼の紹介である音楽愛好家のために作曲された。この時代、古ーとは貴族から愛好され好んで社交界で演奏されるようになる。人気を集める楽器フルートのために数々の名曲を残した。 
1777年冬、マンハイムでの宮仕えを断念し、自立の道を見出そうとしていた。

<3月17日>第35回歌姫アロイジア オペラ「ルーチョ・シッラ」K135
 16歳に時のオペラ「ルーチョ・シッラ」はマンハイムの地で新たな女性に恋するきっかけとなった。
第2幕のアリア「あぁいとしいものが残酷な危険に」は主人公ジューニアが独裁者に追放された恋人の身を案じ歌う。技巧の限りを尽くした節回しで作品中でもっとも難易度の高いアリアとなっている。

 アロイジアは歌手の卵として歌っていた。四人姉妹の次女で父親は宮廷楽団の楽譜を写す仕事をしていた。モーツァルトは彼女の父を通じて知り合う。アロイジアは「ルーチョ・シッラ」のアリアを難なく歌い上げた。
就職に失敗したモーツァルトはアロイジアとの出会いによって新たな喜びを見出した。

<3月20日>第36回アロイジアとの旅 ピアノソナタ第6番ニ長調K284
モーツァルトはアロイジアとその父とともに演奏旅行にやってきた。聖パウルス教会でモーツァルトはオルガンの演奏を披露した。そのオルガンは今でも「ミーツァツトオルガン」と呼び大切に保存されている。

 ピアノソナタ第6番はフランス音楽の影響がみられ、演奏には高度な技巧が必要とされる。モーツァルトはこのころ旅先の演奏会で好んで弾いていた。

 モーツァルトたちは貴族ナッサウーヴァイルブルグ候邸に招かれた。モーツァルトの伴奏でアロイジアが歌を披露した。アロイジアの歌の才能に改めて感嘆したモーツァルト・・・ますますアロイジアに惹かれていく。
 アロイジアにすっかり心を奪われたモーツァルトは一つの夢を抱いた。
ーーーアロイジアをイタリアに連れて行き僕のオペラのプリマドンナにしたいーーー
そして10日間の演奏旅行は終わった。モーツァルトは就職先を探すと言う目的を忘れ、すっかりアロイジアに夢中だった。

<3月21日>第37回つのる思い アリア「私は知らぬこの優しい愛情がどこからやってくるのか」K294 1778年22歳。
 マンハイムにたつバロック様式の教会イエズス教会。オルガンの演奏をするためにここをしばしば訪れた。このころアロイジアのためにこのアリアを作った。
    私は知らぬ、この優しい愛情がどこからやってくるのか
    私に胸にいつの間にか生まれてくるこの感情
    私の血管を流れるこの氷のようなおののきが
 このアリアは古代ギリシャのクリステネ王が一人の若者に出会った時に、こみあげてきた親愛の情を歌っている。実はその若者は、別れ別れになった王の実の息子だった。
    私の中でこれほど激しく気持ちがかきたてられるのは  
    ただ憐れみの気持ちだけからとは思えない
もともとはテノール歌手のための曲だが、アロイジアのために書き換えた。この曲でアロイジアの魅力を最大限に引き出そうとし、彼女の得意な高温を聴かせどころにしている。

 アロイジアはこの曲をモーツァルトの前で見事に歌って見せた。その歌声を聴いて、益々恋心をつのらせ、将来の夢を膨らませる。アロイジアとともに音楽を楽しみ、そして二人で人生を歩みたい。    

<3月22日>第38回揺れる心 オーボエ協奏曲ハ長調K314
 マンハイムでの就職に失敗はしたが優秀な音楽家達との交流は大きな収穫だった。この「オーボエ協奏曲」を親しい音楽家の一人、オーボエ奏者のラムに贈った。この曲は唯一のオーボエ協奏曲。
 親しい仲間のいるマンハイムを去りがたいモーツァルト。そしてアロイジア。父に彼女の事を賞賛する手紙を送る。父からは女性にうつつを抜かす息子を叱責する手紙が届く。

 そしてある日決定的な手紙が送られてきた。「お前はパリに発つのです!しかも今すぐに!」
気の合う音楽家たちと知り合い、アロイジアに出会ったマンハイムでの4ヶ月。父の意向に従ってマンハイムを離れるべきか、モーツァルトの心は揺れていた。

<3月24日>第40回 引き裂かれる想い ヴァイオリンソナタハ長調K296 1778年22歳

 マンハイムを気に入ったモーツァルトは理由をつけて滞在を伸ばしていた。しかし父の叱責にマンハイムを離れる事を決意した。それは愛するアロイジアとの別れを意味する。

 出発を二日後に控えた日の午後、音楽家の仲間がささやかな演奏会を開いた。モーツァルトが手ほどきした教え子達も3台のクラヴィーアで演奏した。その一台を弾いたのは宮廷の役人の娘テレーゼ。親しみを込めて「妖精」と読んでいたテレーゼにこの「ヴァイオリンソナタハ長調」を贈った。

 二台目のクラヴィーアを弾いたのは宮廷音楽家カンナビヒの娘ローザ。彼女には「ピアノソナタ第7番」を贈っている。そして3台目のクラヴィーアを弾いたのは愛するアロイジアだった。この日アロイジアはモーツァルトから送られたアリアも披露した。
この日はアロイジアの歌声と、モーツァルトの奏でるクラヴィーアがいつまでも響いていた。

 このころモーツァルトが謁見したマクシミリアン三世が急死。親戚のカールテオドール候が跡を継ぎ、宮廷をミュンヘンに移す事になる。マンハイムは大きな曲がり角を迎えようとしていた。

 モーツァルトがマンハイムを離れる時、アロイジアは手編みのレースの袖飾りを送った。そしていつまでも「さようなら」と叫んでいたと言う。アロイジアへの思いを残しながらモーツァルトは旅立つ。めざすはパリ!


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